阿須賀神社
この記事では、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する和歌山県新宮市にある阿須賀神社の概観・ご祭神・境内と周辺の様子・ご利益・アクセスについて知ることができます。
境内の新宮市歴史民俗資料館とその展示物、竪穴住居跡についても解説しています。
目次
概観
阿須賀神社は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する神社で、和歌山県新宮市にある蓬莱山(ほうらいさん)南側の麓に鎮座する古社です。
この蓬莱山は、標高48mほどの大きさで古代より神様が宿るとされる神体山として崇められてきました。
熊野に東征した神武天皇をお迎えした高倉下命(たかくらじのみこと)の本拠地として伝えられています。

阿須賀の「スカ」とは、古い言葉で砂浜・砂丘の意味があるといわれることから、この一帯は昔は島であったと考えられています。
今でも阿須賀神社は川の水が海へと注ぐ熊野川河口に立っています。
もともとは、熊野川が氾濫しないようにしずめの祈りをささげる場所だったみたいだね

阿須賀神社が位置する新宮は、文字としては初めて『日本書紀』に熊野神邑(くまのじんゆう)として登場しました。
この熊野神邑は阿須賀神社の古名であるといわれており、当時からこの地が広く人々に敬われたことを物語っています。

熊野速玉大社と同じ朱色の神殿が美しく、新宮市内では熊野速玉大社に次ぐ規模を誇っています。
本殿の隣には、稲荷神も併せてお祀りされています。

熊野の神々は現在神倉神社が鎮座する神倉山に最初に降臨し、次に阿須賀の森に遷ったという伝説が残っており、阿須賀神社では古くから熊野三山の神々を祀っています。
古くから熊野三山との深いつながりがあり、熊野詣をする人々が著しく増加した平安時代に阿須賀王子とも呼ばれるようになったことから、熊野参詣の王子社(熊野三山の神々の子どもの神の神社)としての性格も持ち合わせるようになりました。

熊野の神の御子神信仰の一社に位置づけられ、平安時代以降、熊野速玉大社から熊野那智大社への道中にあたることもあって、熊野詣の順路の一つとなり大きなにぎわいをみせたことが『平家物語』や当時の貴族の日記の参詣記録に記されています。
蓬莱山を含む阿須賀神社境内地は平成27年、熊野古道の参詣道の一部、中辺路の「阿須賀王子跡」として史跡指定され、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する資産ともなっています。

阿須賀神社境内からは、弥生・古墳時代の住居跡や祭祀跡の遺跡が発見され、社殿背後にそびえる蓬莱山からは大量の御正体(みしょうたい、懸仏=かけぼとけ)が出土しています。
このことから、熊野の原始的な自然に対する信仰の形態とそれ以降の時代における神仏習合の伝統があったことが分かり、熊野権現信仰のあり方に影響を与えたことが確認されています。

また、蓬莱山の麓付近から経塚が発見されていることから、阿須賀周辺の修験者集団の拠点としても栄えていたことが分かります。
蓬莱山には、中国の秦の時代に始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて新宮を訪れた徐福(じょふく)の伝説が残されており、阿須賀神社境内にも徐福を祀る社(徐福の宮)が設けられています。

境内・周辺の様子

阿須賀神社のすぐ後ろに控えている蓬莱山(ほうらいさん)は、南北約100m、東西約50m、標高48mのお椀を伏せたような整った形をしています。
このような形の山は「神奈備型(かんなびがた)」と呼ばれており、神が宿るにふさわしい霊山として古代から人々の信仰を集めてきました。
古代、周辺の人々は蓬莱山を祖先の霊が住む場所だと考えていたみたい

蓬莱山の麓、南側に鎮座する阿須賀神社の社殿裏からは、5回にわたる発掘調査が行われた結果、熊野三山の信仰と神仏習合にかかわる平安時代後期から室町時代に至る200点にも及ぶ御正体(みしょうたい、懸仏=かけぼとけ)と呼ばれる仏像が発見されています。
阿須賀神社の本地仏である大威徳明王(だいいとくみょうおう)をはじめとし、熊野速玉大社の本地仏である薬師如来や熊野本宮大社の本地仏である阿弥陀如来の尊像を含む大量の御正体は、熊野三山の本地垂迹のあり方と信仰を知る上で貴重な遺産でもあります。

阿須賀神社境内一帯は、蓬莱山麓の微高地に立地する集落であったと考えられています。
弥生・古墳時代の遺跡が分布しており、高さ1m、直径5.2mの大きさの竪穴住居跡を含む竪穴住居10棟、掘立柱建物4棟とともに、弥生時代の小型土器や臼玉(うすだま)・管玉(くだたま)等の祭祀遺物も出土していることから、熊野三山信仰の隆盛以前からも、人々が古くから蓬莱山を祀る自然崇拝を行ってきたことが分かります。

阿須賀神社付近の宮井戸遺跡でも同時期の土器が出土していることから、弥生時代に周辺一帯の広い範囲に、蓬莱山を信仰の中心とした集落が広がっていたものと考えられます。
宮井戸遺跡
阿須賀神社のすぐ近く、宮井戸の森の頂上には古代から神社があり、祭神として黄泉道守命大神を祀っています。
神社の建立時期は不明ですが、東側古木の近くの大岩に不動明王を表す梵字(サンスクリット文字:古代インドの文字)が刻まれています。

これは、鎌倉時代に刻まれたもので、この宮井戸遺跡の大岩を千引の岩と呼んでいます。
阿須賀神社同様、古代には信仰の場となっていたと考えられ、今もなお、かつて信仰のあった面影が残ります。
宮井戸遺跡は古代、水葬が行われた場所だと考えられているよ
ご祭神
- 事解男命(ことさかおのみこと)
- 家津美御子大神(けつみみこのおおかみ=スサノオノミコト)
- 熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ=イザナギノミコト)
- 熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ=イザナミノミコト)
ご配神
- 黄泉道守神(よもつちもりのかみ)
- 建角美神(たけつぬみのみこと)
建角美神はヤタガラスのことだよ
阿須賀神社は、熊野川河口に位置していることから、航海の安全や漁の成功を祈る古社であると考えられており、もともとこの地域の地主神とされています。
のち、熊野三山信仰として発展した熊野速玉大社の三所権現信仰に取り込まれ、主座を熊野速玉大社に譲ってその補佐役となりました。

このことから、阿須賀神社は現代でも熊野速玉大社との関係が非常に深い神社となっています。
阿須賀神社は主祭神を事解男命(ことさかおのみこと)とし、このほかに熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)をはじめとする熊野三山の神々を祀っており、航海・延命・発育などのご利益があるといわれています。

境内からは弥生・古墳時代の竪穴住居跡や弥生土器、石器等が発見されています。
祭祀遺物も出土しており、古代から蓬莱山に対する信仰があったことがうかがえます。
大威徳明王
長年にわたる神仏習合の実践の地としても知られ、本地仏として大威徳明王(だいいとくみょうおう)をあわせ祀っています。
大威徳明王を祀った神社、お寺は日本全国を見てもわずかしかありません。


阿須賀神社内で発見された経塚からも、鎌倉時代書記の作とされる斜め向きの大威徳明王の姿を線刻した大威徳明王の御正体が出土しています。
大威徳明王は、六つの顔と六つの腕、六つの足があり、水牛にまたがっている姿をしており、六足尊と呼ばれています。
チベット仏教では大威徳明王は敵の調伏にまつわる法の本尊とされているみたいだね
明王は大威徳明王以外にも、不動明王や愛染明王などさまざまな種類のものがありますが、みんな怒りの表情で、髪の毛を逆立てた恐ろしい姿をしています。
大威徳明王は、明王の中でも特に戦いに強いとされ、敵の調伏の御利益があるといわれています。阿須賀神社もかつては戦勝祈願の目的でお参りされたのかもしれません。
ご利益
- 事解男命…悪縁消除・魔よけ・航海安全・大漁
- 家津美御子大神…身体健全・病気平癒・技芸上達・必勝
- 熊野速玉大神…夫婦円満・縁結び・商売繁盛・家内安全・厄除け・無病息災・殖産振興
- 熊野夫須美大神…子宝・縁結び・恋愛成就・夫婦和合・発育
- 建角美神…安産・育児・学業成就・延命長寿・交通安全・道開き・招福
- 大威徳明王…邪気浄化・結界・戦勝・煩悩除去・怨敵調伏
新宮市歴史民俗資料館
新宮市立歴史民俗資料館は阿須賀神社境内にある資料館で、新宮市及び周辺地域の歴史・民俗資料を収集・保存しています。
館内でひと休みしよう
蓬莱山の麓からは熊野三山の神々を仏として表現した多くの御正体(みしょうたい)が発見されており、神道と仏教が融合した神仏習合の宗教観を知ることができます。
熊野信仰のあり方を現代に伝える重要な拠点の一つです。
阿須賀神社境内の蓬莱山から出土した御正体(神仏習合の歴史を物語る仏像等の遺物)群(重要文化財)をはじめ、新宮城、林業・農業に関する道具等を展示し、新宮・熊野地域の歴史と暮らし、古代・中世の信仰を紹介しています。
境内から出土した弥生時代の竪穴式住居についても、詳しく知ることができます。






展示内容
①蓬莱山出土の御正体
②熊野川河口周辺の史跡
③弥生・古墳時代の集落
④神倉山と熊野川の信仰
⑤新宮城跡
⑥城下町と武家
⑦昔の農耕具
⑧熊野灘の捕鯨
⑨ふるさとの民具
⑩木材のまち新宮
階段 徐福の伝説
蓬莱山出土の御正体と懸仏
阿須賀神社境内の本殿背後にある蓬莱山からは、多くの御正体(みしょうたい)が出土・発見されています。蓬莱山において遺物調査と発掘調査が実施されたところ、中世の遺構が発見されました。
この遺構は、蓬莱山の斜面の本殿裏にある巨石の前面に設けられた石室でした。
遺構からは、総数200以上に及ぶ御正体(阿須賀神社や熊野三山の祭神を仏として表現した多くの懸仏)が出土しました。
遺物自体の作成時期については平安時代末期から室町時代初期の間に作られたものと考えられ、一時期にまとめて埋納された様子であったことから、この遺構は室町時代初期に過去の御正体とあわせて埋納するかたちで営まれたものと考えられます。




これらの御正体は、熊野三山十二社の本地仏の全てを含んでおり、平安時代末期から室町時代初期までの400年間にわたる仏像の作成方法にまつわる時代的変化を見ることができ、当時の神道と仏教が融合した神仏習合の実体と隆盛を極めた熊野信仰のあり方を現代に伝える歴史的な資料としても価値の高さが認められます。
出土した御正体に表された尊像は、阿須賀神社の祭神、事解男命(ことさかおのみこと)の本地仏である大威徳明王が半数近くを占め、これに加えて熊野速玉大社の本地仏の薬師如来、熊野本宮大社の本地仏の阿弥陀如来などの熊野三山の祭神の本地仏を表したものも出土しています。
尊像の表現としては、銅の鏡面に仏を平面的な針書き、毛彫りによって描いたもの、手足の各部品を立体的に取り付けて造られた像など、様々なものがあります。

平安時代末期の平面的・素朴なものから、鎌倉時代の立体的で写実的なもの、室町時代の装飾的なものなど、長年にわたって造られてきた御正体の造像のあり方の変化を見ることができます。
竪穴住居跡
竪穴住居とは、地面を堀りくぼめ、その中に柱を立て、梁や垂木をつないで骨組みを作り、その上から葦などで屋根を葺いた半地下式の建物のことを言います。
阿須賀神社の境内の竪穴住居遺跡内からは炉跡や釜戸跡が発見されており、古代、周辺の人々が蓬莱山の麓で実際に生活を送っていたことが確認されています。


アクセス
〒647-0022
和歌山県新宮市阿須賀1丁目2−25
駐車場
阿須賀神社の隣に10台程度の駐車スペースがあります。
参拝時間
24時間開門 ただし境内の歴史民俗資料館は午前9時~午後5時
公式サイト https://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8002