補陀落山寺③
この記事では、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する熊野三山の一角の古寺、補陀落山寺でかつて行われてきた補陀落渡海の背景について知ることができます。
補陀落渡海(ふだらくとかい)の背景
熊野地方の浜には、慈悲の仏である千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)の主宰する南方の浄土「補陀落浄土(ふだらくじょうど)」に通じるという海上浄土信仰が古来から存在し、とりわけ那智の浜は、その船出の場所として知られていました。

この千手観音菩薩の補陀落浄土での往生を願い、南方への船出をするのが補陀落渡海です。
那智の補陀落山寺(ふだらくさんじ)では、僧たちによってこの行が行われてきました。修験者による行の実践もあったものと伝わっています。
補陀洛山寺の中庭には石碑があり、868年から1722年までの間に行われた補陀落渡海を実践した上人たちの名が列記されています。

いろいろな文献に記録されているんだね
補陀落渡海の実践の背景には、補陀落山寺を背景にそびえる那智山が太平洋に近接した地域であるという地理的な特性と、浜野宮王子社(今の熊野三所大神社)の本地仏である千手観音菩薩が主宰するという補陀落浄土が那智山の海の向こうにあると考えられていたことなどがあります。
補陀落渡海は、入水往生ではなく生きたままの成仏を目指したものであるとされてはいますが、実際には死への旅立ちであったといえるでしょう。
渡海僧は自らの浄土往生のみを目標とするのではなく、自己犠牲の上に人々をその罪やけがれ・苦しみから救おうとして太平洋へと旅だったものと考えられます。
人々は僧の捨身行としての補陀落渡海に布施をし、海の向こうの千手観音菩薩と縁を結ぶことを信じて来世の安楽を願ったのでしょう。
この代受苦としての補陀落渡海の実践のあり方からは、修験道の強い影響を見て取ることができます。
修験道においては、このような捨身行は滅罪行といわれます。
けがれを持つ自己の肉体を捨てその罪をあがない、それと同時に成仏した自己の精神が人々を永遠に救済する、すなわち人々の罪をもあがなうための実践としての捨身行が修験道では重視されました。
こうした捨身行の実践として補陀落渡海を捉えることも可能だね
補陀落渡海の実践の背景には、修験道の影響の他にも、熊野地方が太平洋に面している地域であるということから古来より水葬が行なわれており、祖先の霊が海の向こうに集まって子孫を見守るという常世(とこよ)に対する信仰があったことや熊野から太平洋を渡って常世の国に赴いた神々がいたという神話の伝承が影響しているものと思われます。

補陀落山寺のとなりには熊野三所大神社があるよ
神仏習合の影響のもと、神道や修験道と交じり合う形で熊野地方に仏教信仰が広まったことで、この地域の人々にとって来世の象徴であった「常世」が「補陀落」に変化したものと考えられます。
当初、臨終以前に補陀落山寺の僧が補陀落渡海を実践していたのですが、やがて渡海を希望する僧がいなくなるにおよび、亡くなった僧侶を生きている体裁にして遺体を補陀落船にのせ、補陀落浄土往生のために水葬するようになったと記録されています。
補陀落渡海の実践にまつわる思想的な背景については依然として未解明な部分が少なくありませんが、古来より続く常世信仰と水葬儀礼を背景にしつつ、観音信仰が修験道や神仏習合の影響を受けて行われるようになったものであろうと考えることができます。
公式サイト https://seigantoji.or.jp/fudarakusanji/