補陀落山寺④
この記事では、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する熊野三山の一角の古寺、補陀落山寺で行われてきた捨身行、補陀落渡海の実態と具体的な渡海僧の事例について知ることができます。
補陀落山寺③|補陀落渡海の背景|解説の記事の続きです。
補陀落渡海(ふだらくとかい)の実態
補陀落信仰に基づき、千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)の主宰する補陀落浄土(ふだらくじょうど)への旅を実践する宗教行為を「補陀落渡海」といいます。
その実態は、補陀落浄土を目指し、小舟で太平洋に出発する一種の捨身供養(しゃしんくよう)というべきものでした。
那智には平安中期から補陀落信仰が伝えられており、那智の補陀洛山寺では江戸時代に禁止されるまで住職らによる補陀落渡海の実践が行われてきました。
渡海船は、屋根の四方に鳥居(とりい)を巡らせた神仏習合を表現するかのような帆立船です。

渡海の多くは11月、北風が吹く日を選び夕刻に行われたと記録されています。
渡海の前には30日分の水・食料と油が船室に積みこまれ、渡海僧は熊野権現を本尊とする秘密の修法を経て船室に入った後、外から扉を釘で封印されて那智の浜から伴船に引かれて大海へと船出しました。
一旦船室に入ると、死に至るまで脱出できない構造となっていたといわれています。
那智湾の出口にある帆立島・鋼切島のあたりまで曳航されたあと曳航船の白綱が切られ、僧をのせた渡海船は沖に流されていきました。
渡海船はいずれ沈み、渡海僧が生きながら水葬の形を取って入水捨身行を実践しました。
ほとんどの渡海僧が捨身行を全うすることになりましたが、中には黒潮に流された先で岸に辿り着いた渡海僧もいて現地で熊野信仰を広めたという言い伝えが残っています。
このことは、全国に広まった熊野神社が海の近くに多いことに関係しているものと考えられています。
補陀落渡海を実践した渡海僧のほとんどが補陀洛山寺の住職でした。
生きながらにして補陀落浄土を目指す形での補陀落渡海の実践は江戸時代には廃止され、のちに補陀落山寺の住職の死後、那智の浜から遺体を渡海船にのせて水葬するのをもって補陀落渡海と呼ばれるようになりました。
金光坊(こんこうぼう)の補陀落渡海
16世紀の後半、金光坊という名前の僧が補陀落渡海に出たものの途中で命が惜しくなり、途中でなんとか渡海船の船室を破壊し船から脱出して那智湾付近の島に上陸しましたが、すぐに補陀落渡海の関係者に捕えられ無理矢理に海に沈葬させられるという事件が起こりました。
のちに金光坊が上陸したという島は、「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようになりました。

また、那智湾周辺の海に生息する「ヨロリ」という魚は金光坊の生まれ変わりであるという伝説が伝わっています。
この金光坊にまつわる事件以降、生きながらの補陀落渡海は禁止されたと伝えられています。
公式サイト https://seigantoji.or.jp/fudarakusanji/