熊野三山の神々と仏
この記事では、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する熊野三山の信仰のあり方について時代ごとに知ることができます。
熊野三山とは
霊場として著名な「熊野三山」は三重県・和歌山県・奈良県にわたる紀伊山地の南東部に位置しています。
相互に20~40kmの距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の2つの古寺から構成されており、熊野古道(熊野参詣道)の中辺路によって相互に結ばれています。

「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社は個別の自然崇拝に起源を持っているのですが、神仏習合の影響を受けて、鎌倉時代には「熊野三所権現」として信仰されるようになりました。
また、外国から到来した如来や菩薩などの仏が衆生を救済するために姿を現したものが日本の神様だとする「本地垂迹説」が熊野の地でも隆盛しました。
本地垂迹説では、如来や菩薩のことを本地仏とよんでいるよ
それにともない、「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社の主祭神がそれぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音が神様の姿をとって表れたものと考えられるようになりました。
神と仏の力を併せ持つと信じられるようになった熊野三山の3つの神社はいっそうの信仰を集めるようになり、神仏の聖地を巡礼する「熊野詣」の目的地として繁栄しました。
熊野三山に属する神社の社殿は「熊野権現造り」という他の地域の神社建築に類例を見いだしがたい独特の形式で組み上げられており、熊野の地から全国各地に勧請された約5000社の熊野神社の社殿建築の規範となっています。

那智山の青岸渡寺と那智山のふもとに位置する補陀洛山寺は、熊野の地における神仏習合の過程で熊野那智大社と密接な関係を持つようになった寺院です。
青岸渡寺は明治時代の神仏分離令による破却を免れ、現在でも熊野那智大社に隣接しています。
補陀洛山寺は南の海洋の果てに観音菩薩が主宰する補陀落浄土を求め、住職や聖(ひじり)が民の罪を贖うために死を賭して熊野の海に漕ぎ出す「補陀落信仰」の場としてで著名な寺院です。
熊野三山の自然と原始的信仰
紀伊半島の南部に位置する熊野の地は温暖で豊かな自然に恵まれており、雨の多さも相まって深い山々を形作っています。
山々の南側には遥か太平洋に黒潮が流れ、海の恵みをこの地の人々にもたらしてきました。
太古の昔からこのような豊かな自然を神聖視する風土が熊野の地には育ち、森や岩・川や滝などの自然に霊威を認め神格化する自然崇拝信仰 (アニミズム)が育まれてきました。
熊野ではとりわけ巨大な樹木や丸石、水の流れや森自体が神の存在を示す御神体とみなされ、その周辺の土地とともに聖地としてゆるやかに区画され崇敬されてきました。

熊野那智大社の摂社であり、熊野那智山の山中中腹にある飛瀧神社の那智の滝や神倉神社が鎮座する神倉山山頂にある巨岩ゴトビキ岩(神体石)などが原始的な自然信仰の御神体として代表的なものです。


これらは133mにもおよぶ巨大な滝や自然の被造物である巨大な岩石を神聖視する自然崇拝の信仰の表れです。
やがて、熊野の地では自然崇拝とともに亡くなった祖先をお祀りする霊魂崇拝が盛んになりました。
自然が豊かな熊野の地においては、山や海の彼方に死者の霊が住まう「他界」の存在を想定し、死者の霊は他界に往って遺された子孫をそこから見守るという山中他界観・海洋他界観が生まれました。 このような古代の熊野の人々の霊魂崇拝に対する感覚は、山のふもとや太平洋に死者を葬る葬儀の形式を背景に形成されてきたものと考えられます。
「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する「花の窟神社」や「阿須賀神社」の周辺地では古代、葬送が行われていたみたいだね
古代、熊野の地の人々は神々を周りの自然の中に存在するものと考え、季節の節目ごとに神々が鎮座するとされる神名備山(かんなびやま)、磐座(いわくら=巨岩)に神を招来してお祭りを執り行ってきました。
やがて、時代が下って神名備山の頂上やふもとなどに神社の社殿が設けられるようになり、特別なお祭りの日以外でも常に神々が鎮座する神社として発展するようになりました。
「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社における信仰も、最初はこのような自然崇拝からはじまりました。
熊野速玉大社における原初の祭神は、航海の無事と大漁を祈願する海の神でした。
熊野速玉大社は当初、現在の神倉神社が置かれている神倉山頂上に設けられていました。

神倉山頂上に鎮座する「ゴトビキ岩」が太平洋上に漁に出る人々にとって陸地の目印となっていたことから自然崇拝の対象になったものと考えられています。
現在の熊野川のほとりに熊野速玉大社が移動するにともない、熊野速玉大社は新宮の名で称されるようになるとともに熊野川の鎮めの役割、川の神の役割を担うことになりました。
熊野川の流れをたどって見てみると、熊野本宮大社は熊野川の本流と音無川がちょうど合流する地点に位置していました。

熊野本宮大社は、明治22年の大洪水によって大損害を受け現在の山の頂上の位置に遷宮するまでこの二つの川の中州に鎮座し、熊野川の鎮めの役割を担っていたのです。
このように、原始的信仰における新宮の神と本宮の神はともに熊野川の鎮めの役割を担っているという意味において深い関係にあり、ともに川の神としての性質を持っていました。
一般的に川は山と同様に太古の人々にとって深い崇拝の対象でした。川は人々の生活に欠かすことのできない飲み水を与え、穀物を実らせ、川の恵みを与えます。
しかし、ひとたび氾濫すると、近辺に住む人々にとって甚大な被害をもたらすこともあります。
人々は川の神に対してその恵みを願うとともに、川の氾濫を起こさないでほしいという懇願の祈りをささげてきたのです。
熊野本宮大社と熊野速玉大社における信仰の発展の前提には、こうした熊野川の神に対する信仰が基底として存在していました。
熊野那智大社はもともと巨大な那智の滝を神の依代(よりしろ)とする原始的信仰からはじまった神社で、社殿は当初、那智の滝の傍らに置かれていました。

熊野那智大社では、今でも熊野十二社権現にこの那智の滝の自然神である飛瀧権現を合わせて十三社権現としてお祀りしています。
このように、熊野三山の神々はもともと大自然そのものを信仰の対象としたものだったのです。
熊野本宮大社の「熊野川」、熊野速玉大社(神倉神社)の「ゴトビキ岩」、熊野那智大社の地で轟音をとどろかせ悠久に流れ続ける「那智の滝」。
これらのいずれも大自然の所産であり、古代の人々に畏怖心と崇敬の念を抱かせたことは想像に難くありません。
古代の熊野三山の信仰
京の都の南方、大自然の中にあって辺境に位置する熊野には、古くから熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社が別々の霊場としてお祀りされてきました。
これら三社はともに大自然に対する原始的信仰が根源とされています。

熊野本宮大社は熊野川の中州に存在した旧社・大斎原に鎮座していました。古代には川の神を祀る鎮めの場としての信仰に加え、木の神に対する信仰、食物神に対する信仰もこの地で育まれていました。
熊野速玉大社は熊野川の流れを神格化した信仰を基底としており、神倉山に降臨した熊野権現を熊野川のほとりに遷し祀ったため、新しい宮(みや)すなわち新宮と称するようになったと伝わっています。
熊野那智大社は那智山の那智の滝を神の依代(よりしろ)として崇める原始的信仰を根源として崇拝を集めてきました。
同じく那智山中に位置する青岸渡寺は、インドから来訪したという裸形上人が那智の滝で感得した観音菩薩を祀ったのがはじめだと伝わります。青岸渡寺は、のちに熊野の地に神仏習合が進展するとともに平安時代後期には観音霊場の第一番札所に挙げられているようになりました。
熊野三山の鎮座する熊野の地は、古来から「黄泉の国」と呼びならわされてきました。
このような熊野三山に鎮まる主宰神は、いずれも黄泉の国に関係しています。
熊野本宮大社の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)は、のちに室町時代にスサノオノミコトと同視されるようになりますが、彼は一度根の国に追いやられた神です。
熊野那智大社の熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)は、記紀(『古事記』と『日本書紀』)神話のイザナミノミコトのことで、熊野の地(花の窟神社)に葬られました。

熊野速玉大社の熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)は、記紀神話のイザナギノミコトと同視されるようになりますが、本来は黄泉の国の入り口に鎮座して死者の穢れがこの世に流れ来るのを防ぎ払う神でした。
熊野三山にお祀りされている主神の性質について、「黄泉の国」すなわち死にまつわるものであって一見縁起が悪そうにも見えますが、本質は死からの再生、つまり「黄泉がえり(蘇り)」による生命の発揮にあります。
夫婦神のイザナギノミコトとイザナギノミコトはたくさんの神々を生み出していますし、イザナギのナギは凪と音を同じくし、イザナミのナミは波と音を同じくして海の力強さを表しています。
6世紀(公式には538年または552年)に朝鮮半島から日本に仏教が伝来し、奈良時代には仏教の如来・菩薩などの尊格と日本の神々を併せて崇拝する神仏習合思想が生まれました。
同時に、各地の神々に対する昔からの信仰と外来の仏教とが混ざりあい、日本の神々は仏教の如来や菩薩が衆生救済のために姿を変えて人々の前に現れたものであるという本地垂迹説が説かれるようになりました。
日本全土においてこうした神仏習合・本地垂迹説が広く説かれるようになる中、数百年の間に熊野土着の原始的信仰に大乗仏教・密教・道教・儒教・陰陽道や民間の信仰などが融合し、11世紀ごろには山岳宗教としての修験道が生まれました。
同じ11世紀頃に熊野三山が成立しました。 先述したように熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の3社はもともと独立した霊場でしたが、このころには総称して熊野三山あるいは熊野三所権現と呼ばれるようになりました。
熊野三山においては、各々の霊場の主宰神と共に他の二社の主宰神を配神として合祀する祭祀形態をとってきました。
熊野三山という言葉はそれ自体が仏教的な響きを帯びており、熊野の神々の神仏習合、いわば仏教化が著しくなってきたことを示しています。

熊野速玉大社の社殿内にも仏教画が掲げられているよ
このような過程を経て、熊野三山の熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社にはそれぞれに修験者が訪れ、死中に生を見出すような厳しい修行を行う修験の道場として発展しました。
仏教と神道の両方の要素を備えた実践的修行を行う修験者たちが、熊野三山の霊山に立ち入り定着することを通して熊野の地における神仏集合もよりいっそう進展し、同時に本地垂迹の思想も普及して熊野権現としての霊験が強調されるようになりました。
「黄泉の国」こと熊野三山における信仰においては、記紀神話や修験道の厳しい修行の形態からも理解できるように「死と再生」とが分離し難く結び付けられています。
熊野三山において隆盛した修験道は「死と再生」に密接な関係を有しています。
深山幽谷で命を賭して修行する修験道の峰入りでは、仏の胎内とみなされる山中において人としての死を仮に迎えたのち、仏として再生するものとされています。

熊野における神仏習合が進展する過程において、厳しい山岳宗教を重んじる修験道の性質が分かちがたく組み入れられたため、結果として熊野三山における信仰も修験道における「死と再生」の性質を必然的に帯びることになったのです。
中世以降の熊野三山の信仰
自然神に対する信仰を基盤として個別に発祥した熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社は、中世に入る11世紀中ごろには神仏習合の地、熊野三山としてその祭神をともに祀りあう連携が定着するにいたりました。
このころから上皇や法皇による院政が盛んになり、頻繁に熊野御幸が行われるようになります。
上皇や法皇の熊野御幸の気運が高まる11世紀には、仏教的な修行によって悟りや来世の安穏を得ることが難しくなるという「末法」に対する危機意識が高まりました。
こうした雰囲気のなか、死後の極楽浄土を願う浄土教の教えが貴族層を中心として社会に普及していきました。
浄土教の隆盛という背景のもと、熊野三山の霊地も神仏習合の傾向をいっそう強めて、如来や菩薩などの仏が主宰するという諸々の浄土であると考えられるようになったのです。

その結果、熊野三山の霊地を実際に参詣し浄土往生の功徳を得ることを目的とする熊野御幸や貴族による熊野三山信仰が盛んになりました。
京の都から南に隔絶した熊野地方全体が現世における極楽浄土であるとされ、崇敬を集めたのです。
この中世の熊野三山信仰の隆盛期においては、神仏習合に基づく熊野三山信仰の中心霊地はとりわけ熊野本宮大社であると考えられていました。
熊野本宮大社は阿弥陀如来の主宰する西方極楽浄土の表れであるとされ、来世の救済と現世の安穏を求める「現当二世」の阿弥陀信仰が展開したのです。

また同じく熊野三山の熊野速玉大社と熊野那智大社も神仏習合と本地垂迹の浸透にともない、熊野本宮大社の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)と阿弥陀如来の関係と同様、各々の主宰神に本地仏が定められました。
新宮の熊野速玉大社の熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)に対しては薬師如来、那智の熊野那智大社の熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)に対しては千手観音菩薩が本地仏とされ、それぞれ新宮が東方瑠璃浄土信仰、那智が南方補陀落浄土信仰の舞台となり、現世利益を求める信仰が盛んになりました。
同時に、熊野三山の摂社や末社にお祀りされている十二所権現に対する本地仏もこのころに定められたようです。
熊野三山のそれぞれの神社において他の2つの神社の主宰神を併せて祀るという特殊な合祀の方法は、神仏習合の進展にともなう浄土信仰の隆盛という歴史的動向を背景としています。
熊野三山への参詣を功徳あるものとして行われた上皇・法皇の熊野御幸や貴族の熊野参詣、後の時代の庶民による熊野詣はこのような神仏習合の背景と浄土信仰の普及を経て広く行われるようになりました。
加えて、太平洋に広く面する熊野の地では、海の彼方から来訪するものを暖かく迎え入れる客人(まれびと)信仰が古くから根づいていました。
こうした風土が、伝統的な神々に外来の如来・菩薩を併せて祀るという熊野の神仏習合が速やかに進展した前提となったことは想像に難くありません。

かつて「黄泉の国」・死霊の籠る地と呼ばれた熊野の地は、こうして現世・来世の二世にわたる魂の蘇りを祈る聖地へと変貌を遂げたのです。