神仏習合

 この記事では、日本における神仏習合の概説と神仏分離へといたる過程・神仏判然令と廃仏毀釈の経緯について知ることができます。

概説

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本の神々と外来の仏菩薩の融合関係を表す思想・動きのことを指しています。

 神仏習合のはじまりは古代にまでさかのぼり、段階を追って発展してきました。

 初期の神仏習合を示しているのは、8世紀初頭(奈良時代)から各地の神社の境内や周辺に建立された神宮寺(じんぐうじ)という宗教施設でした。

神倉神社の周辺に建立されている妙心寺

上の写真は神倉神社のふもとにある妙心寺だよ

 神宮寺では、仏教の僧侶が神のために読経したり、神社の神の力を仏教儀礼によって得るために神前読経がおこなわれたりしました。

 神宮寺の周辺では、神官の姿をした僧侶や僧侶の格好をした神官がいる風景は日常的なものであったといわれています。

古神道の儀礼と仏教儀礼がミックスされているね

 薬師寺の鎮守、八幡神社に伝わる『薬師寺僧形八幡神像(やくしじそうぎょうはちまんしんぞう)』は僧侶の形(剃髪(ていはつ)した八幡神が袈裟(けさ)を着て、手に錫杖(しゃくじょう)をもち蓮華座(れんげざ)にすわる僧の姿として表現されたもの)をした八幡神であり、僧侶の姿から仏教の要素、八幡「神」から神道の要素が一体となった像で、神仏習合を表す代表的な像です。

 僧侶が神のために読経するというのは不思議な感じがしますが、 神は人間と同様に悩み苦しむ存在であり、仏法の力により救われる存在であるという神身離脱説(しんしんりだつせつ)に基づく考え方によるものです。

 仏教の世界観では、神々はまだ六道輪廻(ろくどうりんね)の迷いの苦しみの中にあり、その状態からの救済を必要とする存在であると考えられていました。

 つまり、神宮寺の建立目的には神を救済するという側面もあったということです。

 神宮寺での読経の対象となったのち、神は菩薩(ぼさつ)という称号で祀られるようになりました。この現象を神身離脱といいます。

熊野那智大社の隣にある青岸渡寺

 神は仏教を護る存在、すなわち仏法の守護神であるという護法善神(ごほうぜんしん)の観念についても古代から存在しており、このことも神のために仏教儀礼をおこなう理由となっていました。

 このようにして、日本の神々は仏教的な世界観の中で仏・菩薩と統合されてきました。

 その背景には、かつて外来宗教であった仏教が自然な形で日本に土着化するために現地の神の姿をとって表れたとする神仏習合に基づく信仰(=本地垂迹信仰)を経由して、仏菩薩との関係を築く必要性を仏教側が意識していたことが分かります。

神仏習合を象徴する大黒天

 神仏習合は平安時代にかけても進み、そのころには寺の境内に鎮守(ちんじゅ=社)と呼ばれる神社が建つようになり、神社の境内にも神宮寺が営まれ続けました。

 さらにこのころから、古来より続く神道系の山岳信仰と仏教信仰が融合して山岳修行を重視する密教的な要素を含んだ修験道が盛んになってきました。

修験道の行者の木像

神仏習合から神仏分離へ

 神仏習合が進むにつれ、仏教は神社における信仰を包摂する論理を形成してきましたが、制度面においては必ずしも仏教的な儀式と神道的な儀式が渾然一体となったというわけではありません。

 天皇が五穀豊穣を祈る国家儀礼である新嘗祭(にいなめのまつり)の際には、朝廷で仏事を行うことは禁止されていました。

 このことから、天皇が古来の神事を行う際にはその領域から仏教的な要素が意図的に排除されることも少なくはなかったということが分かります。

 このような現象は、神仏隔離(しんぶつかくり)と呼ばれます。

 皇室の祖とされている天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀り、皇室と深い関係のある伊勢神宮では、神道の独自性を尊ぶ傾向が他の神社に比べてとりわけ強く、伊勢神宮の神主の間では仏教用語の使用を避ける傾向が存在していたといわれています。

 このことを仏法忌避(ぶっぽうきひ)といいます。

 また、伊勢神宮の周辺では念仏を唱えることも禁止されていたといわれています。

伊勢神宮では仏教の影響からの離脱がはかられていったんだね

神仏判然令と廃仏毀釈

 明治新政府は1870年に大教宣布の詔を出し、神道の国教化政策を進めるため神社と仏教寺院とを明確に区別しようとしました。

 「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」が出され、制度的に神仏分離がなされたのです。

 もっとも、神仏判然令そのものは廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と同義ではないことには注意をはらう必要があります。

 当時の政府の意図した神仏判然とは、神社の中に存在する仏教的な要素と寺院の中に存在する神道的な要素を除去して、渾然一体として存在していた神社と寺院とを明確に区別することにありました。

神道と仏教の両方の要素を持つ稲荷神社

  しかし、神道を国教化しようという動きが同時に進行していたこともあり、結果として仏教排斥の風潮が全国的に高まり、仏教の側が激しい迫害を受けることになったことはよく知られているところです。  

 長年にわたって神社に祀られてきた仏像・お経や仏具・仏堂は手当たり次第に打ち捨てられ、多くが焼却・破壊されてしまいました。

 このことを指して、廃仏毀釈と呼びます。

多くの貴重な文化財が失われたといわれているよ

 とりわけ、熊野三山など山岳宗教にまつわる神仏習合の影響の強い霊場の仏教的な要素に対する排斥・破壊は過酷を極めたといわれています。

 こうして平安の昔より1000年以上にわたって続いた神仏習合は、制度上は終わりを迎えることになりました。

 日本各地の神社は神と人の関わりや神社の持つ性質について、神仏習合による影響のもと仏教の尊格(御仏)の性質や仏教の教学の概念を用いて説明してきました。

 しかし、廃仏毀釈ののち、神社は仏教的な要素をほとんど薄められて日本独自の信仰と精神文化を表す存在として位置づけ直されることになったのです。

熊野三所大神社から見た補陀洛山寺

 神仏判然令に伴う廃仏毀釈により日本の仏教は大きな打撃を受けましたが、浄土真宗の僧侶、島地黙雷らによって立ち直りの努力がなされました。

 明治新政府による神道の国教化政策はその後結局失敗してしまったのですが、その理由は外圧を受けて1873年にキリシタン禁止の高札が撤廃されキリスト教が黙認されたことや、主に僧侶たちによって仏教の復興革新運動が進められたことが背景にありました。

参考文献